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それじゃぁ 高く売れないよ… (/ω\)

ちょっと頑張れば、5万円位高くなるかもです。


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高校卒業後自動車ディーラーに就職しました

 

 管理人について簡単に自己紹介したいと思います。

 

 進学校に進むも、どうしても車が欲しくて、だけど家は貧乏で、進学をあきらめて就職して車を買う事に決めました。公立の高校でしたが、8クラスあった中で就職を選んだのは男子ではたったの2人でした。この年になると少々もったいなかったと思う反面、当時はそれほどまでに車が欲しかったのです。

 

 メカニック志望で面接を受けましたが、お調子者で愛想のよい喋りが受けたのか、勝手に営業で内定が来ていました。当時は日本で二番目とか言われていましたようですが、トラックなども幅広く扱う歴史あるディーラーでした。

 

 

中古車マイカーセンターに配属

 

 配属先は中古車マイカーセンターでした。

 

 多い時は百台を超える中古車にまみれながら、私の社会人生活がはじまりました。

 

 基本的な仕事は洗車、ワックスがけ、エンジンがいつもかかるようにバッテリーの管理、値段表書き、ワンポイント訴求書き、旗の取り替え、車の移動や並べ替えでしたが、一応営業の肩書きでしたので、平日ふらっとご来場いただけたお客さまの応対や、土日のイベント時の接客なども行っていました。

 

 同期でもう一人入ったのですが、彼は販売成績がすこぶる良く、私と比べられました。私は車と過ごしているだけで幸せで、車を売って給料を増やして幸せになろうなどとは微塵も思っておらず、ただただ車に囲まれて過ごす日々が幸せでした。

 

 同じ事務所に業販(業者専門に卸販売をする人)専門の人もいて、大きな声でいつも電話をしていたのですが、そのやり取りがとても興味深く、中古車の世界ってとんでもないお金が動くんだな、すごいんだな、と、思ったものです。私はお客さまに直接販売する直販で、業販に携わる事はありませんでしたが、聞こえてしまうやり取りの中では、電話一本で数十万円儲けてしまったりするのですから、これは恐ろしい世界だなと思ったものです。儲けるだけではなくて、不人気車や長期在庫車の取引では、もちろん、大損をする事もあったようです。この辺りは当時のセンター長が管理していましたが、私も将来あんなになるのかな?などと思ったものです。

 

 

 

転勤先で花開くも…

 

 成績はボツボツでしたが、どういうわけだか新しい拠点のスタッフに任命され、転勤になりました。

 

 そこでやり手の上司と出会い、私の成績は急上昇を見せます。

 

 同時に中古車ならではのクレームも多くなり、その処理の仕方、心構え、対応や話し方など、ありとあらゆる力が自然と身について行きました。

 

 お客さんとサービスフロントの間に入り、忙しい日々が続きました。

 

 

 ところがです…

 

 

置き手紙を書いて逃げる。

 

 当時の上司は商売に関してとても熱心で、私をマンツーマンで指導してくれました。

 

 間に係長もいましたが、その上司のやり方は熱心すぎるあまり、少々厳しいものでした。

 

 いろいろとあったのですが、私は転職を考え始め、憧れの海上コンテナの運転手になるべく、けん引免許を取得しました。

 

 ちなみに私は、普通免許は全て試験場で取得、もちろんけん引免許も府中の試験場に出向いて、5回程で取得しました。バックの感覚はラジコンを適当に繋いで頭で覚えた上で、当時出入りしていた解体業者の車を使って、少し練習させてもらいました。

 

 

 上司の机の上に置き手紙をして、私は横浜に向かいました。

 

本社の次長が迎えに来る

 

 そのまま会社を辞められると思ったのですが、かなりの勢いで止められました。

 

 入社時に私達を迎え入れてくれた本社の次長が来て、「お前、本社に来い。一生本社にいていいから、会社辞めるな」 と言ってくれました。

 

 本社には若い女子社員が沢山います。 悪くないかなと思い、本社に行く事にしました。

 

 必死になって育て上げた部下の思いがけない本社勤務に、上司はとても悲しんでいました。

 

 ちなみにその上司とは、現在も年賀状のやり取りをしています。 山登りが好きで元気そうです。

 

中古車の下取り書類全てを任される

 

 仕事は中古車部の資料づくりと、展示場で売れた車と下取車として新車営業所から送られてきた書類とのドッキングや、当社名義への登録、抹消、所有権解除など、様々でした。

 

 通勤には2時間程かかりましたが、苦にはなりませんでした。

 

 当時の中古車本部は電話をしても融通が効かず、納車の迫ったお客さまとの間に入った現場は大変な思いをしていました。

 

 そこへ、現場上がりの私が彗星のごとく現れたので、ちょっとだけ状況は改善されました。

 

 

 時代の流れと共に人員配置の見直しが行われ、当時 「登録の神様」 と言われていた上司が現場に出されてしまいました。現場になじめず、すぐに退職してしまい、とても悲しい思いをしたものです。

 

 一方で、当時まだ20代の若造に、とんでもない仕事量が任せられました。全ての営業所から送られてくる下取り車の書類のチェック、ナンバープレートの管理、当社名義或いは抹消の登録、印鑑証明書の期限の管理、「神」 が抜けた後は大きかったのですが、私は必死になってがんばりました。当時の給料は忘れもしません、どうしても断わり切れなかった生命保険を給料天引きされて、手取りで11万円です。こんな給料でくそこのやろう、と思いながら頑張りました。

 

 登録や車の納車は、一時期に集中する傾向があります。3月末などは、決算の関係もあり、かなり数が多くなります。

 

 忘れもしないとある年の年末、私はいくら処理をしても送られ続けてくる書類の量に閉口していたのですが、覚悟を決めて会社に泊まり込むことを決行しました。当時はまだそれほどうるさくなかったので、自分だけ出てきて静かな机で仕事をする事が可能でした。経理の一部の人も出ていましたが、私が家から布団を持ち込んで、担当重役の机の前に敷き、「どうだこのやろう」 と言わんばかりに、その布団で寝転んだのですが、経理の同僚は腰を抜かして驚いていました。

 

 会社は 「なるようにしかならないから、時間内でやればいい」 と言いました。ですが、それでは現場の人がかわいそうでした。新車を販売したセールスマンは実績に応じてインセンティブ(実績給)をもらえるのですが、納車から何日かでお金を回収できないと、その実績給がカットになるという仕組みがありました。現金や手形は殆ど回収できるのですが、当時問題になっていたのが下取車だったのです。車が下取りとしてマイカーセンターに搬入され、事故跡などなく、査定書と同じ状態が確認される事が1つ、そして下取り書類が揃い完備している事が1つ、この二つが完備してはじめて、注文書の下取り車として計上された額の売掛を消す事ができるのです。

 

 往々にしてこの、下取り車の書類の流れに問題がありました。根本的な問題はシステム自体か、完了までの日付の長さなど、別な所にあったのかもしれませんが、そんな事を考える余裕もないままに、私は新車を販売してくれた営業の人の実績給がカットになってしまうのがかわいそうで、その日に届いた書類は、溜める事なく即日処理するように心がけていました。

 

 

 

 

登録課の課長よりも 格段に信頼があった

 

 一日にチェックする書類の量は多かったですが、同僚の女子にも手伝ってもらい、なんとか軌道にのるようになって来ました。

 

 本社ですから、必然的に難しい登録も出て来ます。

 

 名義人が亡くなっている、会社が解散している、夜逃げしている、その他諸々の状況の必要書類も、きちんと営業所の業務に電話で説明できるまでになっていました。

 

 何度か陸運局の登録担当官とも電話で話をしましたが、当初は 「あなたの会社にも登録課長がいますよね」 などと言われたものです。実際には登録課長も私より後に登録の仕事をはじめており、登録課長に何度も教えてあげたりしました。 私の給料は11万円でしたけれどね。

 

 

 

 

再び現場へ

 

 当時、私は4時に起き、2番電車に乗って眠りながら通勤し、6時半から仕事をしていました。

 

 直属の上司からは 「やめろ」 と言われていましたが、こうでもしなければ仕事は片付きませんでした。

 

 まずいと思ったのかどうかはわかりませんが、一癖ある私は再び中古車販売の現場に出される事になります。

 

 でも、その先には、会社としての大きなプロジェクトが待っていました。

 

RV専門拠点のスタッフになる

 

 中古車の営業に戻った後、しばらくして会社から言われました。

 

 「RVの専門拠点をここに作るから、そのスタッフをやってくれ」 とのことでした。

 

 断わる理由もなく、自然な流れで、スタッフになりました。

 

 自動車ディーラーが打ち出した、RV専門拠点、アウトドアとRVの情報発信、山あり谷ありの試乗コースでランクル80に試乗できる、ランクルを串刺しにした 「てんとう君」 で、転倒時脱出の疑似体験、パリダカ走破車の展示、各種キャンピングカーの展示、アウトドアイベントの開催、などなど、こんなことやってお金もらっていいのかな、という感じの仕事をしました。新車のRVも販売しましたが、注文書に、例えばアイバワークスのグリルガードや、シビエのフォグランプが入れられたりと、様々な取り組みをしました。今思えばどうしてできたのかとも思いますが、ランクル70バンのショートを8ナンバーにして販売した覚えもあります。ディーラーが新車販売でこのようにすることはありませんでしたので、かなり画期的な取り組みではあったのですが、数年経過すると会社側も考えるようになり、やがて所長とスタッフの間にも小さな亀裂が生じるようになってきてしまいました。

 

 ちなみに研修では、今は名前もなくなってしまった、愛知県のアラコに行ったり、相模原にあったセントラル自動車に行ったり、アイバワークスに行ったりと、面白い車の側面を勉強しました。販売もしていましたので、車の知識も身に付きました。特にRV車の専門的な部品には強くなりましたし、いろいろな業者さんとも仲良くなれて、大変有意義な時を過ごす事ができました。

 

退職

 

 車を売るのか、情報を提供するのか、みんなに楽しんでもらうのか、会社としての目的が怪しくなって来ました。

 

 これは潮時だなと、当時30歳になった私は、一区切りつけようと退社を決意して上司に申し入れました。

 

 この上ない円満退社で、皆さまに見送られながら退職となりました。

 

 ちなみに当時の所長からは、現在も家で乗っている車を買い(テリトリー侵害でしたが)、同僚のスタッフの方々とは年賀状のやり取りが続いています。

 

 

 退職金と貯金を元に、放浪を決意、自由な生活を始めました。

 

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